不可逆的な「こども」と「おとな」

「こども」はいつ「おとな」になるのか。

非現実的な願望でも「夢」だと胸を張って言えるのが「こども」で、

物事の分別がつき、かつて「夢」だったものが非現実的だと理解し、状況を受け止めて代替案を考えられるのが「おとな」だと最近思った。

「こども」は何でも知ってる「おとな」になりたくて、「おとな」は楽しく生きる「こども」になりたいのだろう。でも本質的な意味で「おとな」は「こども」に戻れない。悲しいかな。

 

私はこの春から大学4回生になった。

大学院へ進学する予定なので、これから3年間は研究室の中でマイクロ単位に支配された生活を送るだろう。研究室が人数のわりにかなり狭い事もあって「閉じ込められる」感覚が沸き上がる。

もちろん、安全な場所で自分の好きな研究に打ち込める「守られた環境」だという意見が多数派なのは理解している。それでも来年には新しい環境へ羽ばたいていく同期の姿を見ると、置いて行かれたような劣等感に苛まれるのは避けられない。

私の人生、こんな感じでいいのか?

この学部に興味を持った中学生の私は、今の姿に満足しているのか?

そんな事ばかり考えて、全く別の進路を選んだ自分を想像する。

例えば文学部とか。

でも今更文転なんてできないし、私の性格上どの道を選んでも悩み事は絶えないし、それなら「こども」だった過去の自分が選んだ道を責任を持って進むしかない。

 

都合の悪い情報を知った時にどう受け止め、行動するか。

自分で定義した「おとな」へと成長するために課題はまだまだ多い。